クリエイティブと鼻の穴

コピーライターの袋とじ

ねぎま

中年のみぎりを生きる今でこそ、「ネギとかって重要だよね」「料理に深みがプラスされるっていうかね」などと、小にくたらしい顔でいうこともあるわたしだが、以前は肉と肉のあいだにネギがはさまっている「ねぎま」なぞというものを認めていなかった。若さとはただ肉を喰らう欲であった自分は、たとえば焼き鳥の「串」を食べるときも

 

肉-肉-肉-肉-肉ー

 

という肉の連なりを常に求めており、

 

肉-葱-肉-葱-肉ー

 

という、ギミックにがまんならんかった。バランスなんぞくそくらえ。肉のところでテンションがあがり、ネギのところでテンションが下がった。だいたい、「ねぎま」という名前も、よくわからない。なんだか猫だましのようなことばだと思いませんか。モモならモモ肉であり、ささみならささみ、手羽なら手羽先である。肉とネギを食するのに、「ねぎま」とはこれ如何に。おれは肉のことを愛おしく思っているのに、なんだろう、ここでは「ネギありき」みたいな、「ネギのワンマン経営」みたくなっているのが許せんかった。
そのようなわけで、「ねぎま」ってなんなん。と思い先日「ねぎま」について調べてみたところ、これはなにか底知れないことばだな、ということが判明して、にわかに戦慄している次第である。

 

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江戸落語「ねぎまの殿様」で、煮売り酒屋に訪れた殿様が「ねぎま」を食していたく気に入るという話がある。この当時、「ねぎま」といえば焼き鳥ではなく、「ネギとまぐろの鍋」のことであった。のちに串にネギとマグロを刺して食べる簡易的なものとなり、その後マグロの価格が高騰。代用品として鶏肉が使われるようになった。
そういったわけで、かつては「ねぎ」と「マグロ」の頭文字を取って「ねぎま」。現代では、マグロの「マ」ではなく「間」という字をあてることでそのなごりを残しているという。

なるほど。と納得し、知見の門を閉ざそうとしたとき、「あいやまたれい!」駆け込んできたひとりの侍がある。金のペンシルを脇差しにした、コピーライター殿の登場であった。うわ、めんどくさ。と思ったわたしに、コピーライター殿はこう言った。
「ここで問題になるのが、間(ま)である。ネギとネギの間(ま)をもって、『ねぎま』とするのならば、串における

 

X-葱-X-葱-Xー

 

ここのXの部分は『なんであってもよい』ということになるのではないか?」
「そうですね」
「つまり、ネギとネギの間に、かつてのようにマグロがはさまれていても呼び名は『ねぎま』であるし、豚肉がはさまれていた場合であったとしても『ねぎま』。牛肉ならどうか。『ねぎま』である。ネギならどうか。いわんや『ねぎま』である」
「ネギの間にネギがはさまっているなら、もはや焼きネギですけどね」
「ノンノンノン。ネギとネギの間にある以上、なんでも『ねぎま』になりまんねん」
と、金のペンシルを脇差しにしたコピーライター殿はホクロだらけの小にくたらしい顔で言った。そして、「ねぎま」をこのまま許してしまえばおそろしいことになると言った。


「ねぎま。これは汎用性が高すぎる言葉だ。ネギとネギの間にはさめば──はさみさえすれば、なんでも『ねぎま』といえてしまう。そんな社会をわたしたちは認めてしまってもよいのだろうか?」

 

そう「問題提起」すると、金のコピーライター殿はカッと白い閃光に包まれ爆発した。
地面から白煙の噴き上がる爆心地に立って、わたしは先ほど金のコピーライター殿の言ったことを反芻していた。悪意をもったものの、ねぎまの汎用性……。つまりそれは以下のようなことではあるまいか──。


「ねぎま」と言い張って、ネギとネギの間に、ちくわやコンニャクを挟んであからさまなコストダウンを目論む。そんなあくどい焼き鳥店の店主が現れることを否定できない。こんなのは詐欺だ、「ねぎま」じゃない、と客が怒り出しても「それはあんたらの『受け取り方の問題』でっしゃろ?」とまるで耳を貸さない。──食べられるものならまだいい。面白半分でネギとネギの間にMONOケシゴムなんかをぶっ刺すやつがいるかもしれない。ひどい悪ふざけだ。あまつさえ、ネギとネギの間にマカロンなどを挟み、おしゃれな創作料理を考え出すいけすかないフレンチのシェフが現れるかもしれない。ネギの辛味とマカロンの甘みが絶妙なハーモニーを奏で、料理史に新たな一ページを刻むだろう。波止場近くの第三倉庫でネギとネギの間にシケモクを挟んでハードボイルドを気取る異国のナイスガイ。「ヘイ! 浮かない顔してどうしたんだい? ジョニー」と声をかけると、「ヘマをやっちまった」と意気消沈している。「ヘマ? どうしたっていうんだ君らしくもない」「ああ。おれとしたことが、しょうゆと酢とラー油の分量をまちがえちまったんだ」「なんだって!」「しょうゆと、酢と、ラー油の分量だ。これがボスにばれたら大変なことになる」「いますぐ戻って、調合をやりなおせばいいじゃないか」「だめだ、もう間に合わない。ボスはすでに食卓にいて餃子が焼き上がるのを心待ちにしている」「じゃあ君はいったいどうなるんだ?」。ジョニーは静かに首を横に振ると、薄い唇を曲げて笑顔をつくり突然握手を求めてきた。わたしが差し出した手をジョニーは強く握った。「伝言の依頼だ。ワイフに今までありがとうと伝えてくれ」。彼の言葉の意味が理解できたのは、その日の晩餐会で目の前に料理が運ばれてきたときだった。シェフは顔色ひとつ変えず本日のメインディッシュは「YAKITORI」ですと言った。銀色のドーム型をした蓋を開けると、そこにはグリルでこんがりと焼かれた「ねぎま」がお目見えした。

 

指-葱-指-葱-指ー

 

まさか、と思った。だが焼き目のついた一本の指に見慣れた指輪がはめられていたことで、それがジョニーのものだとわかったんだ。

 

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おわかりいただけただろうか? つまり、ねぎまはありとあらゆるものを受け入れるほどのポテンシャルを秘めている。秘めすぎているのである。オーライねぎま。自由すぎるじゃないか、ねぎま。もはやわたしは、自由の女神像が掲げているトーチがいつ「ねぎま」に変わったとしても、ふしぎに思わないよ。

 

 

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 イラスト/石川恭子