クリエイティブと鼻の穴

コピーライターの袋とじ

愛のカレー。もしくは、なんで死んでしもうたんや、武彦さん。

 告別式を終えると参列者は会場の外へ退き、棺の前では遺族と近親者らが集まり別れの儀が執り行われていた。「最期のご対面になります」。葬儀会社の担当者の言葉に促され、藤本貴和子はゆっくりと棺の前へと足を運んだ。

 穏やかな顔をしている。会うたびに苦悶の表情を浮かべていたこの数ヶ月がうそのように。白髪交じりの無精髭が剃られ、死に化粧のほどこされた夫の頬に手を添え、二三言話しかけると貴和子は彼が常日頃から愛用していた財布や手帖、眼鏡などをそっと傍らに置いた。

 そしてバッグから、白いガーゼのハンカチに丁寧に包まれた黄土色の固形物をふるえる指先でつまみ上げると、故人の冷たくなった手元へ静かに置いた。「武彦さん。あなたが大好きだった、いつものカレー」。もう食べさせてあげられなくなるけど──不意にこれまで押さえつけていた感情が溢れ貴和子は嗚咽をもらした。記憶の中に立ちのぼったカレーの甘い香りが、戻らぬ人への愛着を呼び起こし胸をぎりぎりと締め付けた。

 

 子どもみたいな人だった。夫は週末のカレーをいつも楽しみにしていた。学生時代、付き合い始めた当初から作っていた手料理がカレーだった。それは、飲食店の娘なのに料理ができない彼女の唯一作れるメニューだった。母から譲ってもらったレシピ本を片手に、初めてつくった不器用なカレー。野菜の切り方はいびつで大きく切りすぎたじゃがいもは固く、芯まで火が通っていなかった。鍋を派手に焦がしたこと一度や二度ではない。それでも夫はおいしい、おいしいと言ってカレーの盛られた皿を抱え込むようにして食べ、「おかわり!」と度の強い眼鏡を曇らせて言うのだった。

 結婚して子どもが生まれてからも週末のカレーは藤本家の恒例行事になっていた。なんでも飽きっぽいところがある夫だったが、カレーだけはなぜか一度も飽きたとは言わなかった。ときどき、外でスパイスの効いた本格的なインドカレーを食べることがあったが、「なにかが違うねんなあ。よう言わんねんけど、やっぱり、貴和がつくった甘いカレーが一番うまいわ!」。と衒いなく言われ、とても照れくさかったことを憶えている。大の甘党だった彼のために、隠し味のチョコレートやはちみつをいつもたっぷりと入れていたのだ。ハンカチで目元を拭い、順に別れを告げる親族らの様子を見ながら、貴和子はそんなことをぼんやりと回想していた。

 

「武ちゃん、武ちゃん、なんで死んでしもうたんや!」背後の扉が勢いよく開き、髪を振り乱した女が躍り込んできた。いっせいに振り返る親族らを気にもかける様子もなく、女は一直線に棺の前へと踊り込む。「ああ!ああ!なんでこんなことになあ。だから、言うたやん、身体に気をつけてて。偏食直した方がええて言うたやんか。甘いもんばっかり、食べさせられてからに──」。

 慌てて制止しようする係員を振り払い、女はやにわにポケットからティッシュにくるまれたカレールーを取り出すと、棺の中の遺品を手で払い退けるようにして故人の唇にぐぃん、と押し込んだ。

「これ、あんたの好きやった辛口カレー。天国でも思う存分食べてな」。

 

 貴和子は、その顔に見覚えがあった。忘れるはずもなかった。二五年を超える夫婦生活で、夫が犯した一度だけの不貞。その不倫相手がいま目の前にいる宮代麻紀だった。

「あなた、なんでここに……」

「人殺し!」

 貴和子の言葉を遮るように甲高く女は叫んだ。

「武彦を殺したのはあんたや!」

「麻紀さん、もう二度と東京に……私たちの前に現れないでと言ったはずよ」

 混乱した気持ちを抑え、貴和子は静かに言った。麻紀は小さく鼻を鳴らし、およそこの場に似つかわしくない強い色の紅を引いた唇を不敵に歪め「残念ね」と呟いた。

「早く出ていって!」湧き上がる嫌悪を振り払っても、小刻みに震える声を抑えきることはできなかった。まさか、そんなはずはないと自分の中で何度も打ち消していた疑念。それが現実だったことに貴和子は気づいていた。半狂乱になって夫を責め立て「もう二度と会わない」と彼が泣いて誓った七年前のあの日。目の前で携帯電話の連絡先データを消去したあれからも、この女と夫はずっと続いていたのだ。自分の知らないところで。

 

「残念ね、貴和子さん。彼ね、本当はあなたのカレーが見るのも嫌なくらい大嫌いだったんだって」と目の前の愛人は唐突に吐き捨てた。

「時と場所を考えて下さい。あなた、自分が何言ってるか分かってるの?」表情をこわばらせ、応戦するのが精いっぱいだった。

「出張で神戸に来るたびに、彼、そう愚痴ってたよ」。いったいなぜ、夫がこの非常識な水商売の女と邪恋に陥ったのか今もって理解ができない。

「彼はさ、本当はピリ辛が好きだったのよ。ピリ辛カレー。ピリ辛炒め。ピリ辛ハンバーグにピリ辛ビビンパ」

「ここでする話ですか? あなた、いいかげんに──」

「『甘口ばっかりじゃ、やっぱり飽きるんだよね!』それが彼の口癖だった。あなたに気をつかって、無理して食べていたのよ。だけど、本当に好きなのは私が作ったピリ辛カレー。すりおろした生姜が隠し味のね。あなたの虫歯になりそうな甘ったるいカレーじゃなくて」

「そんなことない、彼はいつもおかわりしてくれたわ!」相手にしないつもりが、カレーのことを持ち出されて思わずカッとなった。

「何杯?」

「二杯!」

 ふっと麻紀は薄ら笑い「四杯。わたしのカレーは常におかわり四杯よ!」

「白米の分量は!」はしたないぐらい、声を荒げてしまった。ご飯の量によって、満腹度は違うんだから。単純に四杯の方が多いとは言い切れないはずよ。

「二合はペロッと。武彦さんはいつも言っていた。『いや〜いつもここにくると食べちゃうんだよなあ。愛人だけに、二合(二号)はペロリ。』」

 会場がどっと沸いた。上空からあられのように次々と棺におひねりが投げ込まれる。紙にくるまれた小銭が勢いよく顔に当たり、故人は「痛ッ!」と短く叫んだ。棺からこぼれ落ちたおひねりを麻紀は腰をかがめて拾い集めバッグの中に素早く突っ込む。

 

「やめなさい、遺族たち!」

 

 あらんかぎりの声で貴和子は叫んだ。

 しん、と場が鎮まると、夫の口元に置かれた汚らわしいカレールーをつまみ上げ、床に叩きつけるとパンプスの踵で踏んだ。ざらざらの砂状になったルーから黄色い脂がにじむ。

「何なの?この寸劇。馬鹿らしい!」

「何するのよ!」反射的に麻紀は貴和子の頬を平手で打った。打たれた貴和子はすかさず打ち返す。マニキュアを塗った指をしならせまた麻紀が打つ。憎悪の焔を瞳に宿した貴和子も即座に応戦する。武彦さんの棺の前でテニスの激しいラリーのような平手打ちの応酬。

 

ピシャッ!

ピシッ!

パチン!

ビビン!

ツパン!

シタパッ!

ペン!

ポパン!

へピン!

プノンペン!

パピコン!

ハボン!

 

 髪の毛がバサバサになった女と女のほべたから、珍妙な音が鳴るたびに武彦さんの頬骨はコンモリと盛り上がり、半笑いになっているのが丸わかりだ。堪えるだ、武彦さん。あんた今死んでる設定なんだから。キャットファイトはさらに泥沼の様相を呈し、お互いの顔にカレールーをなすりつけ合うといったあられもない段階になってさすがに見かねた近親者らがそれぞれの腕を抱えて二人を引き離した。おさまらない女たちはペッペッと唾を飛ばし合う。「そんな臭い口で、よく旦那と舌を絡めていたもんだよ!」「おだまりなさい、クラミジア!」。

「ええかげんにせんかい!」。罵りあう二人を諫めたのは、故人の叔父・髙橋である。横浜の老舗ホテルで二〇年以上に渡り料理長を務めたという髙橋の厳めしい声に貴和子と麻紀は思わず我に返った。

「まったく情けない。あんたら、故人に対して恥ずかしいと思わんのか!」

 そのとき、武彦さんは真顔に戻って完全に死んでいた。

「お互い、一人の男性を愛したもの同士やろう? 何を葬儀の場で争い合うことがあるんや。武彦は、ご覧のとおり完全に死んどるんや。こんなにも、白目を剥いとるんや。汚汁をたらして。どうしても、あんたらが決着をつけたいと言うなら、この場で得意料理のカレーで『白黒』つけたらええんとちゃうか? 葬式だけに」

 おっと、後半何を言っているんだこのオッサン。

「ごめんなさい武彦さん……」と貴和子は神妙にそう呟くと、麻紀の方に素早く向き直り「どっちが美味しいカレーを作れるか、勝負よ!」と言った。

 即座に葬儀会社の係員らが慌ただしく動き、システムキッチンが運び込まれるなど葬式場が厨房のセットに入れ替わる。その間、一〇分もかからない。さすがにプロ集団。こなれたものである。よくあるケースなのだろうか? 

 白と黒のラインが交互に入った鯨幕のエプロン姿に着替えた貴和子は、ピンクの花柄のエプロンをつけた麻紀を睨みつけた。──ありえない、と思った。葬儀で、マリメッコのエプロンをつけるとは、なんて非常識な女!

「なんて非常識な女!」

 と、思わず口に出してしまったほどだ。こんなマリメッコ柄の女に負けるわけにはいかない。「北欧かぶれのバカ女め!」と言い放ちながら、この北欧かぶれのバカ女め、と思った。

 かくして故人の大好物であった「カレー対決」が、ここ北鎌倉総合斎場特設キッチンコロシアムで執り行われる運びとなった。

 ファンファーレが鳴り、前座の闘牛ショーが終わると倒された牛から切り落とされた耳が一枚ずつ貴和子と麻紀に手渡された。円形になったスタジアムを取り囲む観客席の遺族らから歓声があがり、白と黒の紙テープが舞う。それに応えるように軽く手を振りながら左サイドから貴和子が。右サイドからは闘牛の耳を咥え、ヒール役のプロレスラーよろしく険しい表情で登場する麻紀。口の周りは鮮血で赤く染まっている。それぞれがステージの中央へと歩みを進める。

 

f:id:hanaana:20170222121306j:plain

イラスト/石川恭子

 

「レディース・アンド・ジェントルマン!」

 

 スポットライトの下で、タキシードを着替えた叔父の髙橋がマイクで怒鳴りを入れた。「皆様、本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。さて、大変長らくお待たせいたしました。これより、藤本貴和子・宮代麻紀によります弔いのカレー対決を行いたいと思います。果たしてこの試合に勝利するのは愛妻か、側妻か。非常に激しい戦いが予想されております。ではまずお二人に意気込みを聞いてみましょう! 白コーナーの貴和子さん、いかがですか?」

「そうですね、やっぱり『正真正銘の妻』として、絶対負けられないなという思いでいっぱいです」

「今日は、どういったカレーで勝負を挑みますか?」

「特別なことはしません。する必要がありませんから。私が家族のために毎週末つくっていた『家のカレー』をつくります」

「正々堂々、真っ向から勝負といったところでしょうか」

「そうですね」

「隠し味は、やっぱりチョコレート?」

「はい、甘口カレーがわが家の定番ですから」

「スウィートな思い出も、たくさん詰まっているカレーですからね」

「グスッ。そうですね……もし、彼がもう少し生きていたら……来週のバレンタインデーにプレゼントしようと思っていた手作りのチョコレートを……実は今日、持って来ました」

「えっ、本当ですか?」

「はい。見てください」

 ピンク色のリボンが結ばれたハート型のチョコを高く掲げると、コロシアムの観客席からおおーっという声があがった。「これは、凄い!」髙橋ががなり立て、会場には激しいフラッシュがまたたく。

「今日は、これを特別に隠し味に使いたいと思います……おういおうい」思わずその場で泣き崩れる貴和子に「頑張れ!」「負けるな!」の声がかかる。

「なんという運命のいたずらでしょうか! 本来であれば、本人に手渡されることになっていた手作りチョコレートを溶かした、『愛のカレー』。今ここで流している彼女の一粒の苦い涙が、甘いカレーの隠し味となるのでしょうか。この一杯には、否が応にも期待値が高まります!」

 マイクに唾を飛ばしながら、髙橋は蝶ネクタイを震わせてわなないた。「──では黒コーナーの麻紀さんの方はどうですか?」

「はい。えっと、やっと真実をはっきりさせる時がきたなと」

「真実、と申しますと?」

「どれだけ表面をきれいに取り繕っても、メッキはいつか剥がれるんです。このコロシアムに訪れた多くの人たちの目の前で、『偽りの愛』というマスクをべローン!と剥がしてやろうかな、と

「自らの手で正体を暴く時を、虎視眈々と狙っていた」

「そうですね。もし彼が生きていたとしても、早かれ遅かれ同じ結果になったと思いますが。実際、武彦さんは甘いカレーばかりを食べさせられて虫歯で死んだんですから。乳歯が全部溶けたんです

「おっと、これは新しい情報が出てきましたね。武彦さんは、乳歯が、全部溶けた?」

「はい、全部溶けました」

「──壮絶な死因ですね」

「武彦さんは永久歯が生えない先天性欠如という状態でした。永久歯と比べるとエナメル質の層が薄く、未成熟で弱い乳歯しか生えていなかった。そんな彼に甘いカレーばかりを食べさせたらどうなるでしょうか。いつか武彦さんの歯はボロボロになり、神経に達した虫歯菌が全身に及んで深刻な骨髄炎を引き起こしたのです。愛のカレー? ちゃんちゃらおかしいですね。私には彼が食べていたのは『殺人カレー』だとしか思えません」

「なるほど、これは因縁深いですね。では麻紀さんがつくるカレーこそが、彼にとってふさわしいものであったと」

「香辛料をたっぷりきかせたカレーは、代謝を促進させて老化を予防し、健康への効果も高い。もっと早く、彼に気づかせてあげればよかった。後悔してもしきれません」

「完全に、彼は死んでしまいました」

「はい。完全に死にました」

「今、彼に何か言いたいことは?」

「武彦さーん、天国から応援しててなー!」

「きっとその思い、完全に死んでる武彦さんにも伝わったと思います。本日はスパイシーな戦いを期待しております!」

 

 コロシアムの巨大スクリーンに、それぞれのメニューとレシピが映し出されると観客がざわざわと蠢いた。

 

  • 〈白コーナー〉本妻・藤本貴和子作「愛情たっぷり。いつものカレー」

 

[材料] 5人分

・ニンジン 2本

・ジャガイモ 3個

・玉ネギ 2個

・武彦さんのモモ肉 600グラム

・牛乳 250cc

・はちみつ 大さじ3

・ケチャップ 大さじ2

・バター 50g

・カレールウ甘口

・板チョコレート  1枚

 

  • 〈黒コーナー〉愛人・宮代麻紀作「真実のタンカレー」

 

[材料] 5人分

・玉ネギ 2個

・ニンジン 2本

・武彦さんの舌肉 1本

・レッドペッパー 小さじ1

・鷹の爪 5本

・自家製ガラムマサラ 適量

・生姜 2片

・ニンニク 2片

・カレールウ辛口

 

 

 かくして、故人の屍肉を素材としたカレー対決が幕を開けた。貴和子は武彦の仏衣をハサミで切ると、ハムストリングス付近からモモ肉をさくっと切り取り、食べやすい大きさに揃えて塩で揉み牛乳に浸した。「肉を牛乳に浸すのにはなにか理由があるんですか?」髙橋の質問に、「臭み取りです。屍肉独特の臭いを取るためにやっています。これは安い武彦さんの肉を美味しく食べるためのコツですので、皆さんのご家庭でもぜひお試しください」と言ってニコッと笑った。

 一方麻紀は、武彦さんの下あごを掴んで力強く引き下げると口の中にペティナイフを入れ、ぐるりと腕を回して素早く舌を摘出。水洗いして血を流し、ステンレスのボウルの中で粗塩をまぶして強く揉み込む。「これでだいたいの汚れは取れますが、血管の中に血が残留していることがあるのでできるだけよく揉むことがポイントです。あと、舌の付け根の断面が特に気持ち悪いです」「なるほど。テレビで映す時は完全にモザイクだハハッ!」と言いながら髙橋は素早く目を逸らした。口元にハンカチを当てていた。

 貴和子と麻紀が下拵えした料理は鋳物の鍋にセットされ、棺台車に乗せられて、燃えさかる火葬炉のなかへと投入された。約一時間後、郷愁を纏ったふくよかなカレーの香りが火葬場に漂う。においにつられてお腹をすかせた野良犬や仕事帰りのサラリーマンも続々と集まってきた。

 貴和子は黒、麻紀はオレンジのエナメルコーティングが施された鉄鍋の前に立ち、同時に蓋を開く。もわっ、とした湯気があたりに立ちこめ、両者のカレーの完成である。

 

 それぞれのカレーは遺族や弔問客やにふるまわれた。SNSの口コミにより、さらに人が集まり、カレーの前に並んだ人々の列はどんどん長くなり後列のほうは富士山麓にかすんで見えるほどである。人気のクレープ店の行列と間違えて並ぶ女子高生や、特売スーパーの行列と間違えて並ぶ主婦もおり、現場は紛糾した。

「やさしい味がする」「カレーなのに甘くて意外」「深い愛情を感じる」という貴和子のカレーに対し、「スパイシーで、刺激的」「元気になりそうな気がする」「汗をかくほど美味しい」といった一般の声が麻紀のカレーに寄せられた。

「火葬場で作ったとは思えない味」と、近親者の評価も二分。最終的なジャッジは髙橋に委ねられた。二皿のカレーを順に食べ、グラスの水をゴクリと飲んで、白い顎髭をさすりながら何度か頷き髙橋はマイクを掴んだ。

「どちらのカレーもたいへんおいしくいただきました。どちらか一方を選ぶ、というのが非常に難しいほど甲乙つけがたい出来であります。貴和子さんのカレーは、わが家のカレーの決定版といった趣で、だれもが『なつかしい』と感じる普遍的な強さを持った味。隠し味の影響でやや甘みに偏り、好みが分かれるきらいはありますが、故人の嗜好性を汲み取り長い時間をかけて昇華した味は、まさに愛情に溢れた一皿です。その対極とも言えるのが対戦者・麻紀氏のカレー。風味豊かなスパイスを纏った、『華麗なカレー』という形容がぴったりでありましょう! クミンやクローブ、レッドチリと複雑にミックスされた自家製ガラムマサラは、プロ顔負けの絶妙な配合。甘い香りと刺激的な辛味がグラデーションのある旨味を形成しております。まさにこれは、『火遊び』の味──世の旦那様方は気をつけていただきたい一杯であります」。

 拍手と笑いで会場がどっと沸き、髙橋の顔が「うまいこと言うたった」風にぐにゃりと歪んだ。

「悩ましい選択ではありますが──私は貴和子さんに一票を投じたいと思います。理由は、一皿のカレーのなかに故人を彷彿とさせる『何か』がより深く凝縮されていたことです。長年シェフの経験をもつ私でも、その味の正体が何かはっきりと突き止めることはできませんでした。しかし、彼女のカレーのなかには間違いなく愛が……愛というスパイスがぎゅんぎゅんに入っていたのであります!」髙橋は天を仰ぎ号泣した。そしてカレー鍋の形をした巨大なトロフィーを貴和子に手渡し「おめでとう!」と言った。

「ありがとうございます」。

 貴和子は目尻を拭い、小さく頭を下げると「髙橋さんがおっしゃった『故人を彷彿とさせる何か』。その正体を皆様にお教えしたいと思います。実はもうひとつ、カレーの中にレシピにない隠し味を入れていたのでございます」。

「公開されたレシピに表記されていないもの、ということでしょうか?」

「はい、そうです」

 弔問客がざわつくなか、鍋の中にトングを入れると、貴和子はどろどろになった物体を摘み出した。まとわりついているカレールーが下に流れ、そのものの姿が次第にはっきりと現れる。テンプル、蝶番、ノーズバッド、レンズ──「武彦さんの愛用していたメガネでございます!」。

「アツアツのメガネだー!」ここぞとばかりに声を張る髙橋のマイクを、麻紀が素早く奪い取る。「ちょっと待ってください、みなさん! 大切なことをお忘れではないでしょうか? そもそも故人の味の嗜好を、生きている私たちだけで決めてしまってよいのでしょうか。死んでいる武彦さんにもカレーを味わってもらわないと、公平な勝負とは言えません」。

「ちょっと何言ってるの、あなた。彼は完全に死んでるのよ。非常識よ! バカ!」

 と言う貴和子を腕で制止して、髙橋は「では、最後に武彦さんにジャッジしてもらいましょう」と言い、棺を開け武彦さんの顔に熱々のカレーがざんぶりとかけた。

 皮膚が徐々に赤らみ、ぷるぷると震えはじめる武彦さん。「ぶはっ!」と鼻からルーを噴出し、半身を起こして「殺す気か!」と言った。

「死んでる場合じゃないの、あなた。ジャッジして。どっちのカレーがおいしいか!」貴和子が詰め寄る。

心底なんのことや!

「お願い。どっちのカレーがおいしいかおしえて」。麻紀は武彦さんの両肩をつかんで激しく揺する。「わたしのカレーよね?そうよね?言ってたわよね」

「誰や!わしの、ハムストリングスから勝手に肉削いだん!」

「カレー対決をしてるの、わかるでしょ?状況考えてよ!」

「パニックにしかならんわ! って、なんかしゃぺりにくな、たれや、わしのベロぬいたん」

「あなたの一言で、すべてが決まるのよ」

 妻のまっすぐな瞳を受けて武彦さんははっと我に返った。

「僕の一言で……?」

「そう。見て」と、貴和子はカレーに塗れたメガネを武彦さんの顔にそっとかける。キッチンコロシアムに集まった遺族、弔問客、不倫相手、サラリーマン、野良犬、女子高生、主婦、テレビクルーといった人々の視線がいっせいに自分に注がれていること察した武彦さんは、ぱあっと顔を赤らめると「うん。正直、僕が一番好きなんは、カレーうどん」と言って自ら棺をバタン! と締めると、「ええから、早よ燃やせボケ!」と言った。

 

f:id:hanaana:20170222121352j:plain

イラスト/石川恭子