クリエイティブと鼻の穴

コピーライターの袋とじ

ねぎらう話

こう寒いと日課にしている朝のランニングもだんだんと辛くなってくるのが人情であって、ああ、今日はちょっと休みたいなあと思ったときドーナツの顔をした懶惰な悪魔がわたしに囁くのである。「ほうら、このまま温かい布団で二度寝しちゃいなよ」。「カフェオーレでも飲みながら、まったり過ごす朝って最高だよね?」。そのようなストロベリー味の甘言は持ち前のハガネの精神でもっていやんいやんと振りほどくのだけれど、問題なのはもっともらしい顔で囁いてくる「かしこ」の顔をした悪魔のほうであって、このものは詰め襟で「体力づくり? ふっ、無理して風邪をひいたら元も子もないよね」とか、「午後一に提出する原稿、間に合うの?先にゲラチェックだけでもしておいた方がよくない? ランニングは、いつでもできるよね?」といった「一理ある」ことを言ってくるのでタチが悪く、思わずわたしも「ウム」と頷いて、「もっともでござる」と膝をつくのだけれど、あれっ、なんかおかしいなあと思って、「こいつ、ルパンの変装じゃないか?」と思って、顔べりっと剥がすとさもありなん。中は空洞のドーナツ野郎であった。やはり。なにかおかしいと思ったのだ。こういう輩は、世の中にもたくさんいるものだ。もうボクは騙されないぞ、と思って布団をかぶってフテ寝ってアカンがな。いうて、いきおい飛び起きナイロンパーカーを羽織って住宅街をむちゃくちゃに走った。ベロを出して。

 

●●

 

「走りながら、どんなことを考えているんですか?」とわたしに質問をする人がいないので、これまで返事をする機会に恵まれなかったのだけれど、今、あえてその質問に答えるなら、わたしは走りながら「えらいね、俺」と思っている。

ほかにも「すごいね、俺」とか、「いいかんじだよね、俺」、「俺のがんばり、ちゃんと俺は見てるからね」と思っている。なぜ、わざわざそんなことを思うのかというと、そうしないと自分を「ねぎらう」人がおらず、すぐに心が挫けてしまうからである。

考えてもみてください。いくら居職の体力づくりとか中年太り予防だとかいってもこの真冬の朝に、霜柱ニョキーン! 立ってる朝に──うちは山のほうだから特に寒いのだけど、朝起きて軽い体操をしたあと即座に外に出て行くなんてことはなかなか根性のいることであります。だからこそ、わたしは走りながら地蔵にどや顔をして見せたり、カーブミラーに映る自分を見、「ごらん。『中年の鏡』が、鏡に映っているよ」と囁きかけ、ひたすら自らを鼓舞しているわけである。

 

しかしこのたび、あることに気づいた。ねぎらわれるべき人はほかにもいたのである。

その日、揚揚と走るわたしの背後にざわっとした気配を感じた。そして、ザッザッザッという足音が近づくや一気に横から抜き去っていった人がある。それは緑のワークジャケットに緑の帽子を被った某運輸会社のドライバーの人であった。手に大きな箱を抱え、慌ただしくパーマ店の角を曲がり急坂を駆け上っていく。その様子が、なんというか、こう「遊びじゃねえんだよ、こっちは」という感じで、わたしは非常に恥ずかしい気持ちになった。

中年の余興で走るわたしと、差し迫った用向きがあって走るドライバーさん。これは走る理由というか、気合いがちがうのである。あまつさえ、自分は地蔵にどや顔をしたり、ミラー映る己にうっとりとしている有様。向こうは、配達時間なども指定された荷物をきっちり時間内に届けるという重要な任務を負っている。

自分も昔、運送会社で配送の短期アルバイトをしていたので非常にその苦労がよく分かる。

実際、あれは大変な仕事なのだ。

明らかに積載量をオーバーしたワンボックスカーで住宅街をぐるぐると回る。がたん、と不穏な音がして後ろを振り向くと「天地無用」シールの貼られたシクラメンの鉢が倒れており青くなる。

また米やビール瓶のケースなど重量のある荷物をエレベーターのない団地の上階まで運んで、呼び鈴を鳴らしたら不在であったときの肉体的精神的ダメージは大きいし(後日また運ぶことになる)、家人が出てきたのはよいが、パジャマ姿の若いやつで口をもぐもぐとさせて何か食べてたりするとなんか腹が立つ。よいことといえば、起き抜けのマダムが乳を半分放り出したような格好で出てくるのを拝めることぐらいである。

さらに近頃は、ネットショッピングの増加に伴い配送ドライバーの労働状況は過酷を極めているという。

ねぎらわれるべきは、自分ではなく、ドライバーさんではないか。

わたしはそう思い、もっとドライバーさんに親切にしたいと思った。だけど、うまくねぎらえるだろうか。ねぎらうとすれば、どのように労を謝すればよいのだろう。わたしは幾度か頭のなかでシミュレーションを試み、実際に試してみることにした。

 

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ピンポーンと呼び鈴がなる。

わたしは玄関を開けて荷物を受け取り、伝票にハンコをつく。

「いやー今日寒いですね」といつも家にくる細面のドライバーさん。三〇代後半ぐらいの浅黒い肌の男性である。

「いつもご苦労さまです」

「まあ、仕事ですから」

「せっかくなんで、コーヒーでも一杯どうですか。すぐ入りますよ」

「ありがとうございます。でも、次の配達がありますんで」

「まあ、そう言わず。大福はどうですか」

「気持ちはありがたいのですが、すみません」

じゃ失礼します、と言ってドライバーさんは行ってしまった。

ねぎらい作戦は失敗だ。たぶん、コーヒーだからいけないのだ。次の配達が迫っているなかで、ゆっくり茶を啜っているわけにはいかないのである。そこでわたしはドライバーさんに、運転の合間にでも食べられるようキャンディやみかん、栄養ドリンクを差し入れすることにした。

「いやー、いつもありがとうございます。でも、気を遣わないでくださいね」。

そう言って受け取ってくれた。成功だ。そこでわたしは次の段階に移ることにした。

「いつもありがとうございます」

わたしはドライバーさんを玄関で見送り、どてらのポケットに忍ばせておいたベビーカステラをひとつ、ドライバーさんの背中に向かって放り投げる。「ドライバーさん、召し上がれ」そう言うと、ドライバーさんは振り向きざまにベビーカステラをハコッ!と口でキャッチ。「ろうも、ありふぁとうございまふぃた(どうも、ありがとうございました)」と言って駆け去る。

よし、ねぎらえたぞ!」と、わたしは、よいことをした気持ちになる。

それから、ドライバーさんへの「ベビーカステラ支給」は恒例となった。ハンコをついたあと、失礼しまーすと行って出ていく。去り際、ドアのすき間から一瞬わたしに視線を返すドライバーさんの企むような、懇願するようなまなざしを受け止め、薄く微笑みを返す。彼がベビーカステラを期待していることぐらい、わたしにはわかっている。

「ごくろうさま!」わたしは彼を追い、サンダルをはいてドアから半身を乗り出すと、ポケットからベビーカステラをつかんで投げる。アンダースローで。

ドライバーさんは──慣れたもので、もう振り向きもせず帽子を取って逆さにするとその中でカステラをキャッチ。二個、三個と投げるたびに華麗に受け止める。そのあとポン、と帽子を弾ませて浮かび上がったベビーカステラをハコッ! ハコッ! ハコッ! と次々と口に放り込む。マジックショーのように。

それで「まは、よろひくおれがいひます(またよろしくおねがいします)」だって。口のまわりを粉だらけにして。

 

あるときわたしはベビーカステラを切らしてしまっていた。配達日はその日の午前中だ。気づいたときには午前十一時を回っており今からスーパーに行く時間もない。やばい。わたしはとっさに冷蔵庫を開けて中を見回し、あることを閃いた。手鍋を取りだしてお湯を沸かし準備をしていると十五分後、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴る。ドライバーさんだ!

荷物を受け取り、ハンコを押すと伝票を持ってドライバーさんは家を出て行く。わたしは声をあげる。「ごめんなさい、今日ベビーカステラを切らしてて……」。えっ、となぜか驚いた表情を浮かべるドライバーさん。もう何回もベビーカステラを食べているくせに、ベビーカステラの存在を今日はじめて知ったかのようなリアクションがなんだか可笑しい。そのあと、「あ、いいです、いいんです」とドライバーさんは笑って出て行こうとするが、わたしは彼を引き留め「今日はかわりにこれ」と先ほどうで上がったばかりの、つるつるのゆでたまごを放り投げる。ぎょっとする表情を浮かべたその次の刹那には放物線を描いて迫り来るゆでたまごを見て反射的に身体が動く。

ハコッ! 

と、ゆでたまごを口でキャッチすると、「もーも、はひはほーほあいわすわっしゃ(どうも、ありがとうございました)」と言うや激しく咳き込みはじめるドライバーさん。これにはわたしの方があわてて「あっ大丈夫ですか」と駆け寄り、背中をさする。額に大量の脂汗をにじませたドライバーさんは「う…ぐ……お……お…おご……」と呻き、唐突に口からたまごをドべッと吐き出した。それを見て、わたしは不謹慎だけど思わず言ってしまったのである。

「ピッコロ大魔王かよ!」

人をねぎらうのって、むつかしいものですね。

 

 

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イラスト/石川恭子