クリエイティブと鼻の穴

コピーライターの袋とじ

ヒムロック

 

ヒムロックとはなにか。それは、氷室とロックの融合。字面で見るとカッコいい。声に出すと、もっとカッコいい。声帯を滑り、のどからスッとぬける流線型のボディ。ロックの「ク」のあとに空間に残るウィスキーのような余韻。その芳醇な響きにうっとりとしてしまう。だけど、なぜだろう。お尻のあたりが、なんとなくこそばゆいかんじもする。「もう一回言ってくれ」、と言われたら、少し早口になるか、照れ笑いでその場をごまかしてしまいそうな自分がいる。わたしの中のシャイな三つ編みの少女は、もう階段を駆け上がろうとしている。弱虫! そんなんじゃだめだ。そんなのはロックじゃない、と自らを叱咤する。ヒムロック。もっと胸を張って。もっと大きな声で!「ヒムロック」。……だめだ、やっぱりちょっと恥ずかしいのだった。

 

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まず、だれもがそう名乗れるわけではないということである。氷室京介というのは、自分たちの世代では知らない人がいない日本のロックシーンの一時代を築いたバンド「BOOWY(ボウイ)」のボーカリストであり、彼のようになにかを成し遂げ、そのジャンルの代表格として申し分のない格式を備えてこそ、そう呼ばれるにふさわしい名称──それがヒムロックなのではないか、とわたしは思う。

 つまり、昨日今日のおっさんが、唐突にヒムロックを名乗りだした。これはちょっと無理がある。しかも、名は田所という。昨日今日のおっさん(田所)が、「誰あろう、自分は、ヒムロックならぬ、タドコロックである」と言い出したとて、誰ひとり田所の相手をしないだろう。

 

「♪世間はなにもわかっちゃいねえ〜」

 

場末のカラオケ喫茶で、地方の縁日で、水族館のアシカショーの舞台の合間に、タドコロックの怨念ソングがさんざらめく。──耳汚し。って、少々脱線したけれども、つまりヒムロックにはヒムロックにのみ許されるなにかがあり、それは昨日今日おっさん──タドコロック──には到底辿り着けないものなのである。

 そして、幸福であったと思うのは──なにを当たり前のことをと言われるかもしれないけど──氷室の名字の最後が、ロックの「ロ」で終わっているということである。同じバンド出身である布袋寅泰の場合は、日本のロック史上において氷室と双璧をなすキャリアを有しながら、名字の最後が「ロ」でなく、「イ」であり、そうなると、『ホテ・インストゥメンタル』とか、あんまりいいのが残ってない。ちょっと、優しすぎるのではないか。『ホテ・イメージソング』というのもあるが、なんだか甘噛み感が残りイマイチである。

 ならば、『ホテ・イン・ザ・スカイ』はどうか。

 

ホテ・イン・ザ・スカイ! 

 

非常にロックっぽい何かを感じる。まっすぐな青春のまなざしの向こう側に広がる、澄み渡るブルー・スカイ! そこを気持ちよさそうに飛び回る、黒い革ジャンを着た布袋寅泰──。なんたることだ。「面白くなってしまっている」ではないか!

 

 ヒムロ + ロック = ヒムロック。

 ホテイ + イン・ザ・スカイ = ホテ・イン・ザ・スカイ。

 

なんだこれは。

「カッコいい」に「カッコいい」を融合すると、本来「めっちゃカッコいい」になるはずではないのか? それが、どこでどう、計算をまちがえたのか。ホテ・イン・ザ・スカイ。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったとわたしは頭を抱えるのであった。ホテ・イン・ザ・スカイ。公式通りにはいかない日本語の深さよ。かつてはそう感じなかった「過剰さ」が恥ずかしくなるのは、年のせいなのか、元来日本人のもつ奥ゆかしさゆえの反応であろうか。ホテ・イン・ザ・スカイ(もう、言うたびに面白い)。

 

 

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イラスト/石川恭子

 

 

かくいう自分もボウイ世代である。中学のとき悪友から『BEAT EMOTION』という、髪の毛をつんと立てた若かりし氷室京介と布袋寅泰が躍動的に写っているジャケットのアルバムを貸してもらって、お年玉を貯めて買ったSONYのドデカホーンという重低音がやたらに強調されて響くCDラジカセで何度もくり返し聞いた。このドデカホーンというのは、音楽を再生するとサブウーファ部分からムフー! とサラブレッドの鼻息のような空気のカタマリ(重低音)が発射されるという、なんだかものすごいやつであった。

ボウイのサウンドは、なんというかこう、悪いことをおぼえたての「ガキンチョ」の胸に、とても浸透率の高いオンガクであったような気がする。そして、そんな少年たちにとって、ヒムロックという存在は、その言葉とともに疑いようもなくカッコよかった。

 

そんな回顧とともに、久しぶりにYouTubeでボウイを聞いてみた。重厚なドラムと、疾走感のあるギター。そして力強く色気のあるボーカル。わたしの目の前に広がるのは、洗練された都会的な恋愛模様──なんかでなく、背伸びしてふかしていたタバコの煙のしみついたソファーのにおいだとか、壁にかかった偽ラッセンのタペストリー、ドラクエⅢ、ジャンプコミック、スナック菓子などが散らばる自部屋の風景であり、それらが「ぶわっ」と蘇って……なんだかこう、異常に面映ゆいのであった。

中学生のとき、「何時やと思てるの!」とオカンに何度も怒鳴り込まれるほど、あんなにも部屋でボリュームをマックスにして聞いていた音楽を、四一歳の私は、できるだけミニマムな音量で聞こうとしている。まるでいやらしい映像でも見ているかのように。隣室で妻子が寝ているという事情を差し引いても、パソコンの貧弱なスピーカーからオルゴールのように鳴るかつてのロックンロールにゴメンと謝る。歳月は、果たして私の何を変えてしまったのか? そういえば、解散が決まったボウイのラストシングルは、『季節が君だけを変える』というタイトルであった。なんだそれは。なにかの暗示か。

 

と、話をまとめかけようとしていたときに、微笑ましいエピソードをひとつ知った。そんなカッコいいロックシンガーの氷室京介であるわけだけれど、ウィキペディアによると実は「まったくお酒が飲めない」のだそうだ。飲みに行ってももっぱらコーラか、たまに飲むときでもカルーア・ミルクの「ミルク多め」。

わたしは思う。かの伝説のロッカーは、バーテンにどんな顔で「ミルク多めで」と注文するのだろうか。名前にロックが入っているのに。