クリエイティブと鼻の穴

コピーライターの袋とじ

わたしがフェイスブックに向いていない二三の理由

 

“SNS全盛の世の中にあって、一流クリエイターたるキミは、フェイスブックで情報を世界に発信するということもしていかなくてはいけない”

 

そんなことをわたしに諭したのは、わたくしの中に棲む、シルバーのスーツを小粋に着こなすプレジデントである。実際のわたしよりも一〇㎝くらい背が高く、実際のわたしよりも鼻筋が通っており、実際のわたしよりもキラリと光る白い歯が印象的で、実際のわたしが乗っていない外車を乗り回しており、実際のわたしが生やしていないヒゲをたっぷりとたくわえている。そんな、自分のなかの「ええかっこしい」のパーソナリティーが自分にそう意見するもので、ものぐさな本来の自分は、ほえーと素っ頓狂な声をあげたあと、鼻くそをほじりながら、そんなもんスかねー、と言った。

それがわたしの、フェイスブックをはじめた理由である。

 

はじめはよかった。

なんでもそうである。

結婚生活。

淹れたてのコーヒー。

おろしたばかりのスニーカー。

そして、フェイスブック。

プロフィール。作品紹介。身辺雑記。他愛もないひとりごと……。マメに更新というわけではなかったけれど、なにやらそのようなことを書き連ね、数少ない友人から「いいね!」なんてもらうとちょっぴりテンションが上がったものだった。

ところが仕事が忙しくなってくると、どうしても記事を更新する時間的な余裕がなくなる。最初は目を通していた知人らの記事も「あとでまとめて読もう」と思って、だんだんと溜まりはじめる。すると、おせっかいな執事セバスチャンのようなSNSは、『〇〇さんが記事を更新しました』『新しいお知らせが〇件、グループのアップデートが〇件あります』と小姑のごとく逐一通知してくる。そうなると、ずっと宿題をやらずに過ごした夏休みの終わりみたいに後ろめたく、追い詰められる気持ちになって、億劫さがいや増す。

『わたしのことは、もう忘れてください』。

そんな置手紙を残して、富士の樹海に消えたろかしらん。そうやって鬱屈してまた更新しない日々を重ねるのだった。

 

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そのように、すぐに拗ける自分の性質がSNSに向かない理由のひとつである。また、フェイスブックで繰り広げられるユーザーたちのきらびやかな世界観は、淀んだわたしの目に少々眩しすぎた。

そこには充実した人間世界の営みが記されている。今宵、気の合う仲間と楽しき饗宴。幼なじみの由美子、グアムで感動の挙式。珍フルーツを使用した、高級スイーツに舌鼓。新婚旅行でバリに来てまんねん。レインボーブリッジを新車でドライブ。金持ってなきゃ、こんな車買えませんぜ、とは言わんけど、お前ら、分かれよ? みなぎるパワー全開で、フェイスブックは、世界はこんなにも美しいのだといっている。蝶々の舞う原っぱへ行きましょうと誘われている。踊りましょう、と色とりどりのベッキーがわたしの手を取って引っ張る。世界はいつでもバイキングのフルコースなのよ! と食べきれないご馳走を目の前に並べて、わたしのサラダに、勝手にドレッシングをかけてくる。

 

画面上では、そんなアグレッシヴな生きざまの競演が繰り広げられており、負けてられんと虚勢を張って、自分もセレブリティなライフスタイルをアッピールしたらんと周りを見渡してみたものの、目に飛びこんでくるものといえば切れた電灯、食べかけのカップうどん、病気の子ども、ボディタオルに付着した縮れ毛、穴の開いた靴下、で、踏んだ納豆、といった、およそフェイスブックの投稿記事にふさわしくない、薄汚れた現実が転がっているだけなのだった。

 

 

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イラスト/石川恭子

 

 

「それってさ、視点の問題よね」

と、わたしに完全に上から目線でアドバイスしたのは、フェイスブックを七年近く続け国内のみならず海外にも数百人の「友達」がいるという知人のMである。

どうすれば、貴女のような、きらきらとした、もしくはオラオラとした、はたまたイケイケな記事が書けるものでしょうか。教えてくだせえと乞うたとき、彼女はわたしにそう言ったのだった。

が、その意味がまったくわからないSNSルンペンの自分は、視点よ、と言われてまず目が泳いだ。そして、Mは

「実際は、だれにだって、そんなステキなことばかり起こってるわけないじゃん」と笑顔で言い放ったのだった。

 

「希望的現実っていうかね、そういうことを伝えていったほうがいいわけよ。わざわざ、ネガティブなことを伝えるよりはさ」。なにかものすごく大事なことを言われたような気がするが、わたしはそのとき、ウンコビッチ元駐中国大使のことを考えていた。

 

「たとえばある日の朝、少し風邪気味で会社に行った。仕事の不手際で上司に小言を言われて凹んでいたけど、昼休みにランチを食べたお店で学生時代の友人にバッタリ出会った。盛り上がって、その夜いっしょにお酒を飲んで思い出話に花が咲いた。だけど少々飲み過ぎて悪酔いしてしまった──。その1日のできごとのなかの、何にフォーカスして記事を書くかってことなのよ」。

「当然いいことばかりあるわけじゃないし、悪いことだけが続くわけでもない。同じ一日を、『体調が悪い日に限って上司にネチネチ文句を言われ、夜飲み過ぎて気分最悪』という視点でまとめることもできるし『平凡な一日に、たまたま出会った古い友人とお酒を酌み交わして特別な時間を過ごした』という視点でまとめることもできる。どっちの話を人は聞きたがるんだろう、ってこと」。

 

晴天の霹靂、とはそのことであって、わたしの頭上へドリフのエンディングで落ちてくるのと同等の巨大なタライが落ちてきた(かのごとき衝撃を受けた)。

思い当たるふしがいくつもあったのだ。

 

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『大人会』と称する、大先輩のライターA先生(御年六七歳)と酒を酌み交わす会を定期的にもうけている。

場所はA先生行きつけの銀座の老舗日本料理店。立川談志師匠も通っていたという名店のカウンターにその日並んでいたのは、瑞々しい初物の松茸。そして、細かいサシが入り、見るからに上物の大トロ。ガラスケースの中には絢爛たる食材がジュエリーのように居並ぶ。

ハムカツ等の悪いアブラに馴れた自分の胃が、とつぜん食道を通ってやってくる上質な大トロの脂に「どないしはりましたんや!」と驚かないよう、わたしは入念なイメージトレーニングを重ねてその日を迎える。

 

「これ、何か知ってる?」とA先生は刺し盛の皿に飾られていた、粒々とした実のなる植物の茎を指で摘む。首をかしげる私に、その青い実を手にのせるとパチンと叩き、弾いて見せた。

「──紫蘇の実。こうすると香りが出ておいしい。しかも、毒消しの作用もある」

とA先生は言い、手のひらで叩いた実を刺身に乗せて食した。わたしも同じように紫蘇の実を叩き、アオリイカの刺身に乗せて味わうと、清新なかおりが口の中に広がって馨しく美味である。 

そのあと、初物だから行っとけばと勧められた松茸を土瓶蒸しでいただく。小ぶりだが外国産と比べて香りが高いという国産松茸。さらにはハモに海老にぎんなんという季節のものがふんだんに入った旬の玉手箱のごとき土瓶の口から、お猪口へと黄金色の出汁が注がれる。立ち上る芳香。鼻の穴をハサミで切って拡張し、この香りをもっと嗅ぎたいと思う。一口啜ると、上品な出汁と松茸の風味が艶やかなハーモニーを奏で、もはや、飲むというより肩からかけたい。オレが目玉おやじなら、こっちの風呂に入りたい。

そのような料理に舌鼓を打ち鳴らしながら語らい、美食の宴を終えたわたし。その日のできごとを、SNS(ツイッター)にこう書いた。

 

“日本料理店にて歓談。『ぼく、六日ぐらい前に、お風呂でオシッコした』とA先生が言った。”

 

あらためて読み返してみて、アゴがはずれそうになった。

一四〇文字という制限があるにせよ、「銀座」も「美食」も「含蓄」も、今日び重要とされるSEOのキーワードたり得る語彙はすべてカットされ、ただ、おっさんが風呂で小便をすることのみが綴られている。歓談のさなかに、たしかにそんな話もしたが、なぜそこを取り上げるのか。こんな情報で検索して来るのは一部の変態のみである。

いや、わたしがいいたいのはそんなことではない。なんというか、もっとこう、あるやん? 見事な大トロを見たのなら、その瞬間、なぜ大トロのことを伝えるべくスマホを取り出さないのか。初物の松茸なら、ニュース性も高い。そのことを知りたがっている人はたくさんいるのではないか。紫蘇の実を叩いて香りを出すという含蓄。それが毒消しにもなりえるなんて話は、食通でなくとも喜びそうなエピソードである……。

 

わたしがフェイスブックに向いていない理由は、つまりそのような嗜好の偏りにあることが判明した。書かれるべき内容と、書きたい内容とに大いなる齟齬があったのだ。A先生(しつこいようだが御年六七歳)が風呂場でおしっこをするというエピソードは、わたしにとってはYahoo!トピックに掲載したいぐらい極上のエンターテインメントであるが、世間的にはあまり興味のない情報のようだ(その証拠に『いいね!』がまったくつかなかった)。

 

一流クリエイターへの道は、まだ遙か遠い。

 

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 イラスト/石川恭子